1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)のテーマ館「太陽の塔」で知られ、今でもたくさんの人に影響を与えている芸術家の岡本太郎さん。
岡本太郎さんのパートナーの岡本敏子さんは、実質的には妻(嫁)なのですが、戸籍上は「養女」だったのです。
なぜなのか、理由を調べてみます!
そして、岡本太郎さんを支えてきた岡本敏子さんの愛情が感じられる素敵な名言(言葉)も合わせてご紹介します!
岡本太郎の嫁(妻)敏子はなぜ養女だった?
岡本太郎さんには、仕事上のパートナーでもある妻(嫁)の敏子さんがいました。
敏子さんは、岡本太郎さんの実質的な妻(嫁)なのですが、戸籍上は岡本太郎さんの「養女」だったのです。
それには2つの理由があると言われています。
「養女」の理由 ①
まず一つ目が、岡本太郎さんが「結婚」という形を好まなかったこと。
これには岡本太郎さんの両親が、あまり良好な関係でなかった事が影響しているそうです。
「養女」の理由 ②
そしてもう一つが遺産相続問題です。
もし岡本敏子さんが妻となっても全ての遺産を相続する事は出来ず、遺産の一部は別の親族の手に渡ってしまうとか。
ですが、子供であれば全ての遺産を相続する事が可能。
そのために妻ではなく養女にしたようです。
こちらが一番の理由だったかもしれませんね!
公私に渡って岡本太郎さんを支えてきた敏子さん。
そのため「自分の作品を管理できるのは敏子さんだけ」と思っていたそうです。
実際、敏子さんは岡本太郎さんが亡くなった後、残された未完成の作品を完成させるため、制作から仕上げの全ての工程で監修に携わっています。
また、アトリエ兼自宅を改装して岡本太郎記念館として公開し、自らは館長に就任しています。
岡本太郎さんは、敏子さんのことを心から信頼していたということですね。
岡本敏子の名言(言葉)を紹介!
岡本敏子はあげまん女性!
岡本敏子さんは、芸術家・岡本太郎さんを支えた妻(嫁)であり、養女でした。
そして、岡本太郎さんにとって、あげまん女性とも言われていました。
ちなみに「あげまん」とは、一緒にいることで男性の運気を上げる女性のことをいいます。1990年(平成2年)に発表された映画『あげまん』(監督・脚本:伊丹十三)によって流行した言葉です。
まずは、岡本敏子さんがどういう女性だったのか、動画で岡本敏子さんの雰囲気・愛を感じてみてください。
愛情が伝わってきますよね!
岡本敏子の名言(言葉)
岡本敏子さんが残した数々のあげまん女性としての名言(言葉)をご紹介します!
以上は、岡本敏子さんの名言(言葉)のほんの一部です。
興味のある方は、岡本敏子さんの書籍を手に取ってみるのも良さそうですね!
岡本敏子のプロフィール
岡本敏子さんのプロフィールを簡単にご紹介します。
岡本 敏子(おかもと としこ)
生年月日:1926年1月1日
没年月日:2005年4月20日(満79歳没)
出身地:千葉県
学 歴:東京女子大学文理学部卒業
職 業:出版社勤務後、岡本太郎の秘書。事実上の妻で養女。
岡本敏子さんは、東京女子大学文理学部卒業後、出版社勤務を経て、岡本太郎主催「夜の会」で太郎と親しくなり秘書となりました。事実上の妻であり、のちに太郎の養女となります。
岡本 太郎(おかもと たろう)
生年月日:1911年2月26日
没年月日:1996年1月7日(満84歳没)
出身地:神奈川県
学 歴:東京美術学校(現・東京芸術大学)中退、パリ大学哲学科履修
職 業:芸術家
まとめ
今回は、「太陽の塔」で知られる芸術家・岡本太郎さんのパートナーだった岡本敏子さんについてご紹介しました。
岡本敏子さんは、実質的には岡本太郎さんの妻(嫁)なのですが、戸籍上は「養女」にしていたことに深い愛情が感じられましたね。
岡本敏子さんも岡本太郎さんのことを心から信頼し、支えていたことが岡本敏子さんの名言(言葉)からもわかりました。
岡本太郎さんと岡本敏子さんは、幸せな夫婦関係だったのでしょうね!
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